2009年2月1日日曜日

ニートという経験は資産である

text by 今一生

 「ニート」、「ヒッキー」、「メンヘラー」、あるいは「ホームレス」や「いじめられっ子」もそうなんだけど、それらの経験は資産に変わる。

 端的に言えば、お金に変えられるのだ。
 しかし、お金に変える方法がわからない人は多い。

  なぜかといえば、社会の文脈にそれらの境遇を「悲しいこと」「問題」「同情に値する」などといったネガティヴな評価があり、そうした評価をする人たちが多 いことで、当事者のニートなどが「自分の今の境遇は人並みではなく、一人前として認められないのだ」と思わされているからだ。

 しかし、自分の幸せくらい、自分で決めればよい。
 ひきこもりたいなら、そうしていればいいと思うし、人は自ら不幸になる権利すらある。

 現在の自分にとって何が幸せか。
 それは、当事者である自分が決めればいいだけだ。
 ほかの人から幸せのカタチを与えられ、そこに自分を合わせる必要がどこにあろうか?

 もちろん、その人が「そろそろヒッキーやめよっかな」と思い始めた時に、どうしても一人では「あと一歩」の行動に勇気が出せなかったり、どうしていいかわからない時に、話を聞いてくれたり、いい知恵を与えてくれたり、伴走してくれる人がいたら、どうだろう?

 つまり、先回りして支援しますよ、というのではなく、「手伝って!」「助けて!」と言った時に、その声を聞いて「それならあなたの望むことに少しばかりこっちの時間をあげるよ」という人がいてもいいと思うのだ。

 しかし、「助けて」の声に全部無料で答えていたら、答える側の人間は働く時間を奪われ、助ける側が貧乏になり、食えなくなり、生活が成り立たなくなる。

 それでも、同じ境遇の人や、かつて同じ境遇だった人なら、話しやすいし、適切な伴走ができるのも事実だ。

 では、どうすればいいのか?

 たとえば、かつてニートだった(あるいは今でもニートだけど初対面の人と会うのに抵抗がない)という人が、「助けて!」と声を上げたニートの自宅周辺に出張し、話を聞いてあげることでお金を得られたら、ニートはニートという経験を金に換えることができる。

 もちろん、助けを求めるニートからもらうお金は、出張するための往復交通費+1000円程度でいい。
 しかし、助ける側のニートには、NPO団体から1回1万円が支給される。
 NPOはそのために助成金を企業や自治体などから取り付ける。

 こういう仕組みができれば、ニート自身がニートを助けることで生活を成り立たせることができ、同時に救われたニートが今度は他のニートを助ける側としてお金受け取れるような循環ができ、次々にニートが「脱ニート」していけるという好循環を生むことができる。

 つまり、ニートはニートという経験を持っただけで、お金を得られるのだ。

 こういう画期的な仕組みを作れ。

 日が変わったけど、昨日の午後、ニート支援NPOを立ち上げるレンタル空手家・遠藤くんに、そのようにレクチャーした。

 ニートがねずみ算式に他のニートを支援し続けていけば、急速にニートは減る。
 しかも、一般的にはネガ評価されることも決して無駄な経験ではなかったというエンパワメント(元気回復)につながる。

 本来、このように当事者の持つ経験こそが資産なのだ。

 よくビジネス本で、ホームレスから金儲けに成功した社長の本が出ていたりするけど、マイナスと思われた経験は、絶対値では資産そのものなのだ。

 だから、ニートがニートを助ける好循環が生まれれば、ニート当事者どうしで本も出せるし、ニートチームで全国に講演して回ることもできるだろうし、新たなビジネスを手がけることもできるかもしれない。

 少なくとも、ニート経験のない学者やカウンセラーでは絶対に語れないリアルかつ具体的なニート生活の経験は、学者やカウンセラーなどの援助職・研究職の集まりに対して発言力を持つこともできるかもしれない。

 だいたいさ、研究者のネタになるばかりでは搾取されているのと同じなんだよ。
 自分の経験を積極的に売りに出せば、学者に金を出させて講演することもできるのに。

 カウンセリングもおなじ。
 相談したら1時間6千円以上、支出するわけやろ?
 それやったら、カウンセラーから一万円もらって、こってり話をしてやるほうが、カウンセラーの勉強代だ。

 そのように、本来の価値が経験者にこそあるのだと認めさせれば、「ニート=問題」という視点はひっくり返る。
 問題なのは、ニートを問題視している人がいることなのだ。

 当事者が困っていることは、当事者個々によって違うのだから、ひとくくりにはできないし、それは同時に個別の体験がそれぞれ金に換えられる価値をあらかじめ持っているということなのだ。

 誰の経験が金になって、誰の経験が金にならないということではない。
 すべての人間には、金に換えられる個別の経験を持っているのだ。

 そういうことは学校では教わらないし、雇われ仕事しかしていない人には見えてこない。
 フリースクールやジョブカフェのスタッフなんかにゃ、絶対に見えてこないことだ。

 そもそも彼らは「ああ、ニートね」と見下しているじゃないか!

 俺なんかは、フリー編集者だから、多くの人が経験していない過去を持っている人は、ベストセラーに化けるポテンシャルのある「将来の有名作家予備軍」として丁重に付き合う。

 マイノリティであればあるほど、孤独な期間が長ければ長いほど、あっぱれと思う。
 そういう人が「本気」を出して新しいアクションを始めようとすれば、あり余った力がスパークすることを知っている。

 今でこそ、極真空手は世界的に有名だけど、その最初には大山倍達という変人がいて、誰も頼んでもいないのに、一人で山にこもり、片方の眉毛まで剃り落して下山しないように自分を追い込み、人里離れた山中で空手稽古にいそしんでいた。

 ヒッキーやニートどころの話ではない。
 お金は一切使わず、誰とも会わず、山で山菜を食って修行の日々を暮らしていたのだ。

  そんな男がやがて自然の中で力を蓄え、下山したら道場破りを次々に行い、直接相手の体にパンチやキックを当てないのが本流の時代に、フルコンタクトの「ケ ンカ空手」を縹渺し、やがて一人、また一人と門弟志願者が集まり、一代で世界中に支部を持ち、全世界の選手が日本で世界大会を行う立ち技格闘技世界一 (オープントーナメント)を開催し、その名を世界に轟かせる極真空手の総帥となっていく。

 これ、マンガにもなったけど、現実の話なんだよ。

 今はそうした話が現実の中で見失われている。
 だから、マンガを先行し、それに触発される現実の読者が現実を塗り替えていくと面白いかなと思っている。

 マンガで描ける夢は、ぜーんぶ、実現できる。

 どらえもんのポケット発明品だって実用化が進んでいる時代だ。
 生身の人間が知恵と勇気と体力で奮闘していく姿は、いい意味で真似できる。

 マンガがもう一度面白くなるには、そういう破天荒な話にこそヒントがあるように思うのよ。